会員寄稿文
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    〜合氣道の修練から何を学ぶか〜
    H14/12           中村 太司
 先日、坂道の下りで溝に落ちている車がいました。よく聞く話ですが、通りすがりの人は、自分には全く関係ないんだからと言わんばかりに通り過ぎていきました。
 そこで私は足を止めて、車を溝から出すため、押す手伝いをしました。溝にはまっていた車は軽四だったので人手があれば、直ぐに何とかなるのは見て分かる筈なんですが、車を動かす作業中にも、次々他の車が通り去っていくのを見て、寂しい気持ちになりました。
 自分が特別何かをしなければならないほどのことで、人を助けることはとても難しいと思いますが、自分の手の届くところで困っている人に、手を差し伸べることすらしないのは本当に情けないです。
 仕掛けの大きな「アフリカの子供達、アジアの子供達」には、積極的に働きかける人たちも、目の前にいる、困った人には無関心というのであれば本当に困ったものです。

 ある人にこの話をしたところ、「自分で出来ることに限りがある。自分がしなくても他の人がするだろう。その人を助けたところで自分が困っているときにその人が助けてくれるのか。人を助けるなんていうのはきれい事だ。」と言われました。
 この言葉を言った人だけが特別なのではないと思うのは、実際に、困っている人が目の前にいても、助けの手を差し伸べなかった人が数多く通り過ぎていったことからもよく分かることです。
 最近の風潮で、「自分に素直になる。自分の気持ちに正直に生きる」ということが重視されてきて、それが、さも「人間らしい生き方」の見本みたいに言われています。
 
 それは簡単に言うと、「自分のやりたいことはやるが、自分の嫌なことはやらない」といった気持ちを表しています。「自分がやりたいことをする」というのは、人間に限った感情ではなく、生き物全てが持っている感情です。しかし、「きれい事、たてまえ」といったものは、他の動物が持ち合わせていない、人間特有のものなので、本当の意味で「人間らしく」というのなら、たとえかなわなくても、常にきれい事やたてまえを目指している精神状態をいうのではないかと思います。
 きれい事、たてまえを目指すことと、「無理をする」ということとは全く違います。

 この精神性は、特別なことではなく、むしろ、世界中でもっとも尊ばれている精神であり、日本では「武士道」、西洋では「騎士道」という名で呼ばれ、洋の東西は違っても、長い歴史の中で人が人であることを大切にしてきた証だと思います。

 合氣道では、力をコントロールする技が重要であることと同じか、それ以上に、心や精神をコントロールする部分がとても強い武道だと感じます。
 柔道、剣道では肉体を鍛え、自分に与えた苦痛を乗り越えることで、精神の修練を働かせようとします。それは、「スポーツ」としての精神力の鍛錬だと思います。

 合氣道では、イメージや心を意識的に鍛える修行があり、本来、どの武道も持ち合わせていたはずのそれは、今や、形や力の発現ばかりを追い求め、失われつつある奥義だと思います。
 自分の心をコントロールし、それを力としていくには、肉体を鍛え、力を示すより何倍もの修行を必要とし、それにかかる時間というのは膨大というほか無く、その長い時間は自分の修行の意味を、時として忘れさせ、自身を失わせることのあるくらい、長い時間だと思います。
 日常生活の中で、自分の精神をコントロール出来るようになるには、「道場」という限られた時間、限られた場所でのみ、自分をコントロールすることより何倍も大変なことだと感じます。

 私は、道場の帰り道での先生の立ち振る舞いを見て、道場の外でもなお、「合氣道」を身にまとわれている姿を見て、一体どれほどの修行の成果だろうと気が遠くなるような気持ちになりました。
 今、とても仕事が忙しいため、道場に足を運ぶことが難しいのですが、私が先生から学んでいるものは合氣の技と、その精神の中から学ぶことが多くあり、出来る限り、自分一人でもできる練習と、いつでも出来る精神の鍛錬を怠らないようにしようと思います。 (終わり)